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最高裁判所第三小法廷 平成3年(オ)1848号 判決 1992年10月20日

上告人

近藤正博

右訴訟代理人弁護士

深草徹

宗藤泰而

豊川義明

大櫛和雄

小貫精一郎

永田徹

被上告人

川崎重工業株式会社

右代表者代表取締役

大庭浩

右訴訟代理人弁護士

北山六郎

平岩新吾

松崎正躬

右当事者間の大阪高等裁判所平成元年(ネ)第一三四七号従業員地位確認請求本訴、仮払金返還請求反訴事件について、同裁判所が平成三年八月九日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人深草徹、同宗藤泰而、同豊川義明、同大櫛和雄、同小貫精一郎、同永田徹の上告理由について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうものか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 園部逸夫 裁判官 坂上壽夫 裁判官 貞家克己 裁判官 佐藤庄市郎 裁判官 可部恒雄)

(平成三年(オ)第一八四八号 上告人近藤正博)

上告代理人深草徹、同宗藤泰而、同豊川義明、同大櫛和雄、同小貫精一郎、同永田徹の上告理由

第一 憲法違反

一 原判決の労働契約の解釈は、憲法第一三条、一四条、二四条、二五条及び二七条に違反する。

原判決は、被上告人会社による神戸工場から岐阜工場への配転命令の結果、上告人が結婚間近の婚約者(現在の妻)と新婚当初から単身赴任して、夫婦別居生活をするか、或いは右婚約者が上告人と共同生活を維持するため、勤務先を辞めるか、いずれかを強いられたとしても、右事情は「本件配転を人事権の濫用とすべき特別の事情があるとするに足りない」と判示している。

右判示は上告人と被上告人との間の労働契約において、配転につき無条件の包括的同意があったことを前提として、会社側の業務上の必要性がある場合には、労働者側に特別の事情がある場合にのみ人事権の濫用として配転命令を制約する解釈に基づくものである。

しかし、配転の結果単身赴任になるか配偶者が職を離れざるを得ない結果となる場合までも、労働契約時に配転につき包括的同意があったと認めるのは、契約の一方当事者である労働者の意思の解釈として誤ったものと言わざるを得ない。

二 更に、労働契約において配転につき無条件に包括的同意があったと契約意思を解釈することは、憲法一三条、同一四条一項、同二四条、同二五条、同二七条に違反するものであり、原判決は憲法に違反する違法なものであり、破棄を免れない(民事訴訟法第三九四条)。

三 そもそも、夫婦は両性の本質的平等に立脚し、同等の権利を有し、相互の協力により婚姻を維持し、家庭生活を営む権利を有するものであり、これは幸福追求権及び生存権の一側面ともいえるのである。

憲法第一三条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定められ、これは基本的人権規定の根幹をなしており、国民ひとりひとりの幸福追求権を保障するものである。

また、憲法第二四条一項において、婚姻は「相互の協力により維持されなければならない」と規定し、かかる憲法の規定の下に、民法第七五二条においても「夫婦は同居し、互いに協力し、扶助しなければならない」と定めている。

更に、憲法第二五条一項において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と国民の生存権を謳っているのである。

ところで、本来夫婦は同居し相互に協力して、幸福な家庭を営むことを目的としており、かかる婚姻生活にして、始めて最低限度の文化的生活と言えるのである。

しかるに、配転により単身赴任を強要されることは、夫と妻のいずれにとっても同居義務を有している夫婦が一つの家庭を営めない結果となり、それぞれの個人の幸福追求権(憲法第一三条)、婚姻生活の相互協力(憲法第二四条一項)、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法第二五条一項)を侵害する結果となるのである。

四 また、遠隔地配転により他方配偶者が家庭生活を維持するため、自らの職を退職せざるを得ない結果となるのは、当該配偶者の職業生活を通じての幸福追求権(憲法第一三条)、並びに他方配偶者の労働の権利を軽んじ(憲法第一四条一項、同二七条)、両性の本質的平等(憲法第二四条二項)に違反する事となるのである。

上告人の場合も含めて、単身赴任を避けるためには、夫の転勤に妻は退職し、付いて行けば良いとの誤った社会風潮を是認する方向で、原判決はなされており、これは女性労働者の労働の権利を、家計補助的なものと軽んじ、両性の本質的な平等に違反し、女性の現に勤務する職業上の幸福追求権を侵害するものである。

五 憲法に違反する法律が効力を有しない(憲法第九八条一項)のと同じく、契約の解釈においても憲法に違反する解釈は無効である。

第二 法令違背

一 原判決の労働契約の解釈は、労働基準法第一条一項、二条一項に違反する。

原判決は、労働者の勤務場所の変更について、「労働者の職務内容(職種)及び勤務場所は労働契約の内容をなすものであるから、当該労働契約で合意した範囲を超えてこれを一方的に変更することはできないが、労働契約における合意の範囲内と認められる限り、個別的、具体的同意がなくても配転を命じうるものというべきである」(一審判決を引用)とした。そのうえで、被告上告人会社における従業員の採用方法、上告人の職種、それまでの配転の実情、就業規則の内容、会社の規模等を考慮して「原告(上告人)は労働契約において、勤務場所の指定変更について会社に委ねる旨の合意をしたものというべく、被告(被上告人)は原告の個別的な同意がなくても勤務場所の変更を命じることができるものというべきである。」と述べ、上告人に対する本件配転も同人の同意なくしてなしうるものとした。

しかし、この労働契約の解釈は、まず、労働基準法一条一項、同二条一項の解釈適用を誤ったものである。

「契約その他の法律行為についても、意思表示の方法、内容あるいは契約環境などの確定は事実問題であるが、これに基づいて、法の許容する私的自治として、どんな法律効果を認めるかは、法律的評価に属する法律問題であり」(条解民事訴訟法・兼子一也、原判決は、この点において法令の違背がある。

1 生存権原理

(一) 日本国憲法二五条一項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定め、生存権を規定する。この生存権の内容を労働者という法的主体に着目して構成すると、「労働者に対し人間に値する生活(生存)を保障すること」となり、この生存権原理が労働法・労働契約によって立つべき法原理となることはいうまでもない。

社会的・経済的強者である使用者と社会的・経済的弱者である労働者との労働契約を、当事者の活動の自由に委ねた場合には、その結果社会的強者がいかに利益をあげ、社会的弱者の生存を危機にいたらしめても、それは形式的自由・平等の結果として放置されることになる。かくして、労働法は、労働者の「人間に値する生存」の確保を目的として社会的・経済的強者たる使用者の権利、自由の無制約的行使の規制をなすのである。具体的には、労使間の結合が労働契約を介することから、労働契約における契約自由の原則の制限として現れる。

労働基準法は、かかる生存権原理に立って、国家法による労働条件の最低基準の強行法的設定として設定されたものであるが、同法一条一項の生存権理念と二条一項の労働条件労使対等決定の原則は、同法の個々の規定の解釈基準となるのみならず、同法の保護を受けることが予定されている労働契約の解釈に際しても、重要な基準となるべきものである(<証拠略>)。

すなわち労基法一条一項、二条一項に定める「労働条件」とは、「労働の提供に関する諸条件」一般あるいは「職場における労働者の待遇一切を含むもの」としてきわめて広く解釈され、労働条件対等決定の原則はかかる労働条件全般に広くおよぶものと解されている(労働省労働基準局「全訂版労働基準法(上)」、石井照久他「詳解労働基準法1」)。この労働条件を労働契約との関係で見れば、それは労働契約において合意されるべき内容、すなわち労働契約内容一般にほかならない。労基法一条一項と二条一項はいわば車の両輪として、労働契約内容ないし労働条件一般が、労働者の人たるに値する生存を確保すべく実質的に自由・対等の立場にある労働者・使用者間で決定されるべきことを宣言した規定ということになる。

そして、この宣言規定のもとで、労働条件ないし契約内容一般を生存権原理に適合すべく適正なものとして実現するために、次の二つの解釈原則が要請されるとする(土田道夫「労働契約における労務指揮権の意義と構造」法学協会雑誌一〇七号)。

「一つは、労働条件は可能な限り労使間の合意(労働契約)において決定されなければならない、という原則である。これは、労働契約を労働関係の内容を決定する最も基本的な要因として位置づけることを意味する。第二は、使用者が労働条件を一方的に決定する場合(例えば労務指揮権の行使による場合)にも、仮に労働者が使用者と自由・対等な立場で交渉したならばいかなる内容の労働条件を決定したか、という観点から当事者の合理的意思を確定し、当該一方的決定の内容を合理的範囲内に限定解釈する必要がある、との解釈指針である」

(二) 労働者の「人間に値する生存」は、単に労働者の生物学的生存を確保するだけで実現できるものではない。

「人に値する生存」の確保は、それを実現するためには、単に労働者の経済生活を安定させるだけでなく、精神的・文化的側面を含めたすべての生活側面にわたって使用者による支配・拘束を排除し、労働者の自主性を確保することが不可欠である。近時、多くの労働法学者は、生存権原理について労働者の経済生活のみならず、その精神的・文化的生活の側面を重視して解釈すべきことを主張している(例えば、本多淳亮「労働法総論」、片岡易「現代労働法の展開」等)。控訴審で提出された片岡意見書も、この立場に立つものである。

2 単身赴任・家族別居による労働者の生活破壊

(一) 労働者は、人間であって、彼が妻・子らの家族とともに同じ屋根の下で生活をすることは、人間らしく生きるための最低条件である。労働者が、経済的にも精神的・文化的にも「人間らしく」生活するには、家族とともに生活することが不可欠の要件である。

片岡意見書は、昭和四〇年代に入って、日本の大企業を中心にして激増した単身赴任とそれによる問題の深刻化を詳細に分析している。

単身赴任がもたらす労働者家族の生活破壊は、次のようなものである。

<1> 単身赴任者自身の心身の健康破壊

単身赴任者にもたらす心身の健康破壊は、すでに民間・公的各種機関の統計調査によって明らかとなっている。単身赴任者は、「体調が思わしくない」「なかなか寝つかれない」「気分がいらだつ」「疲れやすい」と訴え(日本生産性本部メンタル・ヘルス研究室による調査)、単身赴任者がかかりやすい病気は、肝炎、胃・一二指腸潰瘍、高血圧、うつ病等と指摘されている(東京読売新聞、一九八九・一〇・二六)。

<2> 家族に及ぼす影響

夫の単身赴任により、ひとりで家庭責任を負う妻の心理的負担は大きい。新聞紙上でなんど単身赴任家庭の妻の自殺が報道されたことか。離婚の原因となることもある。「調査官という家庭裁判所の仕事を通して数多くの単身赴任家庭の家庭問題をみて来た。これらは単身赴任が離婚の原因だと簡単に言いきれないけれども、もし単身赴任がなかったならば、離婚することもなかったであろう、家裁の問題となることもなかったであろうと感じたことがしばしばあったこともまた事実である」(星山卓郎「単身赴任・通勤婚」法と民主主義一九八七年一一月号)。

単身赴任による父親不在は、子供の成長にも重大な悪影響を及ぼし、登校拒否、家庭内暴力の原因のひとつとなることはすでに専門家によって指摘されている。

(二) かくして、単身赴任のもたらす問題の深刻さは、使用者ですらそのマイナス面を指摘せざるをえなくなっている。

3 単身赴任と労働者の生存権

(一) 平成二年九月、日本も署名した「子どもの権利に関する条約」一八条は、親が子どもの養育および発達について第一次的責任を負うことおよび親がこの養育責任を果たせるように国は積極的な援助を与え、条件整備をしなければならないとしている。この条約によれば、「単身赴任を前提として、いいかえれば子育てに父親が参加できなくなることを知りつつ転勤命令を下す企業の社会的責任がまず問われるべき」(解説「子どもの権利条約」日本評論社)なのである。

(二) 労働者の妻が勤務している場合に、夫に遠隔地への配転が命じられた場合には、いっそう深刻な問題をもたらす。単身赴任を選ぶか、妻が退職するかの選択を迫られるからである。本件も、被上告人会社が、上告人が近く働いている婚約者と結婚することを知りながら遠隔地への配転命令を出したものであって、女性の働く権利と重大なかかわりをもつものである。

女性にとっても、自分の働きによって生きる権利、自分の持っている能力を十分に生かして働く権利、働くことを通じて仲間をつくり、豊かな人間関係をひろげる権利は、人間として奪われることのない権利である。「婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(一九八五年に日本も批准)は、「すべての人間の奪いえない権利としての労働の権利」を掲げ、この条約の精神を受けて一九八一年に採択された「家庭責任を持つ労働者条約」(ILO一五六号条約)の勧告では、雇用の条件として「労働者を一地域から他に配置転換する場合には、配偶者の就職および子どもの教育の可能性を含めて、家庭責任を配慮する」ことを使用者に求めている。

(三) 以上、単身赴任が労働者自身及びその家族に対して与える破壊的な影響と働く配偶者の労働の権利との関わり合いを考えると、労働者が家族とともに生活し、働く配偶者と同居しながら生活することは、「人間に値する生存」の内容をなすものといえるのである。

その最低の条件が保障されなければ、労働者は、経済的・精神的・文化的な全生活局面において、「人間らしく」生きていくことが不可能なのである。

4 生存権原理と労働契約の解釈

(一) 原判決も、一応認めるが、労働者の労働内容、勤務場所が労働契約における当事者の合意によって定められなければならないことは、近代契約法の本義からいって当然である。人は、その自由意思に基づいてのみ他者からの義務づけに服するからである。一方、現代社会における労働の集団的・継続的性格からして、労働契約において最初から労働義務のすべてを特定することが困難であることも事実である。

そこで、使用者が労働者に配転を命じ、その勤務場所を変更できるかどうかを個別的事案について判断するには、その勤務場所の変更が当事者の合意の範囲内にあるかどうかを労働契約の解釈によって決定しなければならない。一般的にいっても、勤務場所の変更が転居を伴うものである場合には「労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかない」(最高裁・東亜ペイント事件判決)ものであるから、この労働契約の解釈には、慎重な態度を要求されることはいうまでもない。「わが国の雇用慣行に基づいて使用者の包括的配転命令権を当然のこととして容認するような解釈態度」をとることは、「労働義務の無内容化をもたらすものであって、独立した法主体者間の合意による権利義務の形成と規律という近代契約法の本義を逸脱するおそれがある」(片岡意見書)のである。

そこで、勤務場所に関する労働契約の解釈にあたっては、使用者の労働義務決定機能を適正かつ合理的範囲内に限定することが中心的課題となる。その範囲限定にあたっては、前記した生存権原理に立つ解釈方法が必要となる。

(二) 原判決は、上告人と被上告人会社との間の労働契約につき、「原告は労働契約において、勤務場所の指定変更について会社に委ねる旨の合意をしたものというべく、被告は原告の個別的な同意がなくても勤務場所の変更を命じることができるものというべきである。このことは、住居の移動を伴う遠隔地配転の場合であっても異らない」と解釈した(原判決自身、右判示部分に続けて「もっとも、このような遠隔地配転は、労働者の生活に少なからぬ影響を及ぼすものである」としている)。

しかし、この労働契約解釈は、「人間に値する生存」を保障する生存権原理に反したものである。労働者が家族とともに生活できないということは、前述したように、その経済的・精神的・文化的な全生活を破壊されることに等しいのであって、そのような結果をもたらす配転をも当初から使用者に委ねたものということは絶対にできない。原判決は、「遠隔地配転は、労働者の生活に少なからぬ影響を及ぼす」という言葉を、単なるリップサービスとして用いているに過ぎないのであって、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすものでなければならない」という生存権原理をまったく理解していないのである。

生存権原理に立って、単身赴任のもたらす重大かつ深刻な影響を考慮すると、「単身赴任は、原則として労働者の同意を要すると解すべき」(片岡意見書)であるが、本件配転命令は近く結婚を予定した上告人に対し、結婚早々から単身赴任を強いるか、婚約者に退職をするかのどちらかを迫るものであって、女性の働く権利をも考慮すると、このような配転は上告人の同意なくしてはなしえないものとしなければならない。

この点において、原判決は、労働者保護法の原理に反して労働契約を解釈するという違法をおかし、それは判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄されなければならない。

(三) 労働契約を解釈するにあたっては、当該企業における慣行をも考慮しなければならない。片岡意見書は、「労働契約の解釈に際しても、その具体的基準として慣習や信義誠実の原則が重要な意義をもつことは、いうまでもない。その場合、労働者保護法の理念・原則に照らして慣習や信義則の内容を十分に精査することが不可欠である」と指摘する。

原判決は、被上告人会社において、とくに会社の経営上の必要に基づいてなされる大量配転に際しては、「個人の意思を尊重する」という方針がとられてきたと認定している。それは、「本人の個人的事情を十分に考慮する」という意味であるとしている。そうであれば、労働契約の解釈にあたって、使用者と労働者間に大量配転については労働者個人の生活事情を十分に尊重するという合意があり、労働者もそのような合意を前提にして生活を営んでいたということになる筈である。

原判決は、「本人が病気であるとか、介護を要する家族を抱えているような特別な事情がある場合には配転内示を撤回した」事例のあることを挙げ、かかる場合は、尊重すべき「個人的事情」に該たるとしているようである。しかし、生存権原理に立つとき、労働者が配転によって新婚早々から別居を余儀なくされる、あるいは、妻となるべき女性の労働の権利が奪われるといった事態は、原判決の摘示する前記事情以上に労働者の人間の尊厳を破壊する事情として考慮されなければならないのでないか。

(四) 原判決は、「控訴人が岐阜に赴任すれば、婚約期間中の交際に不便を来すことは避けられないが、神戸と岐阜は、その距離や交通事情から見て、それほど往来困難な遠隔地ではないことは公知の事実であり」と上告人が主張もしていない「婚約期間中の交際」の不便について述べるだけで、新婚早々から夫婦別居となる深刻な生活破壊について述べることをしていない。そして、「結婚後のことについては、・・・被控訴人において、社宅の提供や、婚約者の就職斡旋などの配慮をして、控訴人らが、新婚当初から別居生活をしなくて済むように、世間一般の新婚夫婦の実情からすれば、むしろ恵まれた条件を与えられていたともいえる」と言う。

この立論において前提されているのは、上告人の妻(婚約者)は、夫(婚約者)に遠隔地配転が出された以上、夫(婚約者)に従って退職し、赴任地に赴き新たな就職先を見つければよいという考え方である。そうでなければ、かかる判示は出てこない。

確かに、このようなおよそ非近代的な「家族帯同」の考えが、「世間一般の実情」としてあることはある。しかし、それは、サラリーマン社会において「転勤によって夫の出世が保証されるなら、それは妻にとっても幸せであるはず、従って妻が夫についていくのは当然」という考え方である。しかし、本件配転は、かかる栄進を約束された配転ではない。

原判決の判示部分は、およそ女性の働く権利をなんであるかを理解しないものであって(女性の労働の権利も、自らが働く場所を決定し、そこで自己の能力を十分に発揮し、それを通じて職場で豊かな人間関係を築き、自分も成長するという権利である)、およそ労働者の生存権の何たるかを理解しない、裁判所の言うべきとも思えない言葉である。

かかる発想に立っていては、労働契約の解釈につき、正当な法的評価ができないのも当然である。

二 原判決の労働契約の解釈は、民法第一条の二に違反する。

1 「個人の尊厳」原理

(一) 日本国憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定める。ここに「個人の尊重」または「個人の尊厳」は、「個人の平等かつ独立な人格価値を承認すること」、あるいは「個人が個人として尊重され、しかも、人間社会における価値の根元とされる」ことを意味するとされるが、それは、特定の人間による利益の無制約的主張や他人に対する支配を排除し、すべての人間の人格(意思・身体の独立)を平等に尊重することを内容としている。すなわち、すべての人間の実質的自由・平等の理念を表明したものである。

そして、憲法の「個人の尊厳」原理は、民法一条の二「本法ハ個人ノ尊厳ト両性ノ本質的平等トヲ旨トシテ之ヲ解釈スベシ」を通して、民法全体を貫く解釈原則とされ、ひいては私法全般を支配する法理念を宣明したものと把握される。

かくして、「個人の尊厳」原理は、国政における個人の尊重を要請する公法原理として機能する一方、民法一条の二を介して実質的自由・平等の理念に化体し、全私法秩序を支配する私法原理として機能するにいたる。

(二) このように考えると、労働契約内容の解釈にあたっても、「個人の尊厳」原理を指導理念とすることが求められる。「労働契約が形式的自由・平等の理念と現実の当事者間の関係との乖離を最も露骨に呈する法律関係であることを考えると、右法理は労働法において特に重要な意義をもつものといわねばならない」(土田道夫、前掲論文)からである。すなわち、労働者個人の独立かつ自立的な人格が尊重される労働契約を実現すべく、使用者による自由・権利の無制約的行使を規則し、適性な労働条件(契約内容)を保障することが労働法の主要な任務となる。

2 「個人の尊厳」原理と労働契約の解釈

民法一条の二の「個人の尊厳」原理に立って、労働契約を解釈するにあたっては、すでに述べた生存権原理に立って解釈する場合とほぼ同じ態度が要請される。それは、労働者の自主的「人格」の確保(実質的自由・平等の理念)と、その「人間に値する生存」の確保(生存権原理)とは、労働者のすべての生活関係における自主性・独立性の確保という基本理念をおのおの別の角度から表現したものにほかならず、実質において一致する、と解すべきだからである(土田道夫、前掲論文)。

そこで、一において述べたと同じ理由をもって、原判決の、上告人に対する配転命令が労働契約の合意の範囲内にあるとした解釈は、民法第一条の二の解釈適用を誤ったものであり、その法令違背は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されるべきである。

原判決が、生存権原理に立たず、従って、個人の尊厳原理にも立てないことは、一の4の(四)で述べた判示部分がみずから証明している。

三 原判決は、配転の個別的差異を無視している。

原判決は、典型的には大学卒の幹部候補社員に対し、多くは定期異動の形をとり、一定の周期で、教育的人事として或いは昇進・昇格人事として実施される配転(以下単にローテーション配転という)と工場・事業所の新設・増設・閉鎖・縮小、企業の合併・操業度の大幅変動に伴い突発的に大量且つ集団的に実施される配転(以下単に合理化配転という)を別異に解すべきではないとして、明らかに合理化配転の事例である本件配転について、明らかにローテーション配転の事例である東亜ペイント事件の最高裁判決(最判昭和六一年七月一四日、判例時報一一九八号一四九ページ)が示した配転に関する人事権濫用の判断基準をそのまま援用している。

しかしながら、ローテーション配転と合理化配転には、以下に述べるとおり、本質的な相違がある。

まず、ローテーション配転は、<1>個人の経験を豊富にし、適材適所の人員配置を行うこと及び仕事のうえでのマンネリ化や特殊な人的関係ができることを防ぐことを目的とし、<2>対象者は、幹部候補社員で、通常、昇進・昇格を伴うか、そうでなくてもいずれ昇進・昇格に結びつき、<3>一定の期間ごとに定期的に実施され、日常的に、本人の希望や意向がくみ上げられるような人事管理の結果として実施されているので、企業の人事政策として、一応の合理性が認められるし、労働者の不利益性の面も、一方的ではなく、また一応の予測のもとに生活設計をたてているので、不意打ちの要素も少ない。

次に、合理化配転は、<1>労働者の企業内での長期的育成とは無関係で、<2>対象者は幹部候補社員に限定されることなく、<3>不定期に、突然生じる企業の一方的都合、必要性にもとづき、労働者の通常の予測を超えて実施されるものであり、企業の合理的な人事政策ではなく、いわば企業責任を労働者に転稼する非常措置の側面が顕著で、労働者に一方的に不利益な面が強く表れ、労働者にとって、予測の範囲外のものであることが多い。だからこそ、被上告人会社においては、合理化配転の実施にあたっては、「個人の意思を尊重する」との労使慣行が存在したのである(原判決も、被上告人は、「大量配転」の際には「個人の意思を尊重する」との方針をとってきたことを認めている。)。

このようなローテーション配転と合理化配転との相違をみると、両者において配転に関する人事権濫用の判断基準も自ずから異なるものと考えられ、前記最高裁判決は、ローテーション配転には妥当な人事権濫用の判断基準であるとしても、合理化配転については、更にゆるやかな人事権濫用の判断基準が妥当するものといわねばならない。

上告人は、原審において、合理化配転について、<1>業務上の必要性が高度であり、かつ当該対象者が最適任者であることの証明がない場合、<2>家族関係等からみて、単身赴任を余儀なくされるなど労働者の生活に、相当程度の不利益をもたらす場合(因みに夫婦別居配転が、労働者の生活に相当程度の不利益をもたらすことは、原判決も否定はしていないようである。なお夫婦別居配転に関する朝日火災事件の大阪高裁判決―平成三年九月二六日判決―は明確に夫婦別居配転がもたらす日常生活上の不利益を慰謝料算定の事情としてみとめている。)、<3>他に不当な動機・目的がある場合には、それぞれ当該配転は、人事権濫用にあたるとの判断基準を提示したが、原判決はこれを独自の見解と一蹴してしまった。

このように、原判決は、ローテーション配転と合理化配転を区別せず、人事権濫用の判断基準の適用の誤り、ひいては法令の解釈・適用の誤りを犯しており、その誤りは、判決の結論に決定的な影響を及ぼすものであるから、破棄を免れない。

第三 判断遺脱・理由不備

原判決は以下の二点において解雇権濫用についての重要な事実についての判断を遺脱したものであり、理由不備として破棄されねばならない。

一 解雇権濫用についての重要な事実の判断遺脱

原判決は、控訴人(上告人)の本件解雇が解雇権の濫用となる事情につき、次のとおり整理する。

「控訴人は、仮に本件配転命令が有効であるとしても、控訴人の主張する業務上の必要性が、一般的なもので、具体性、緊急性に乏しいこと、及び控訴人の被る不利益が無視できないものであること、控訴人に対する被控訴人の説得が威迫的で、しかも虚言を労してまでなされたうえ、被控訴人が控訴人の努力をまったく考慮しなかったことが一層事態を悪化させたことからも、本件解雇は行き過ぎであり、本件解雇は解雇権の濫用として無効である。」

しかしながら、右主張整理は、被控訴人主張の全体の整理ではなく、その部分的な整理である。控訴人は、本件配転拒否の理由が、決してわがままなものでなく、今日の社会通念からみても充分に正当性を持つものであることを強調してきた。すなわち控訴人としては、妻となる尚子の神戸における労働の場を補償するために、夫婦別居とならざるをえない本件配転命令に対して、その家庭を守るために応じなかったものである。このことを理由にした配転拒否について、もっとも過酷な処分である解雇権は効力を持たないというのが、控訴人の解雇権濫用主張の根本であったのである。

そして、原判決は、配転命令が有効であるとの判断以外に、本件解雇の正当性(濫用のないこと)について、理由を示していないのである。

すなわち、原判決はその理由、五において、控訴人(上告人)の被る不利益が通常甘受すべき程度を著しく越えると認められないこと、説得が威迫的でもなく、虚言を弄していないこと、尚子への岐阜での就職斡旋の配慮が、人権無視ではないこと、配転先を神戸に変更できないこと、そして会社が、他の者との比較等においても配転撤回はできないと判断して説得したことを認定するのみであり、これらの事実(理由)は、配転命令権が濫用でないことの事実と理由であっても、解雇権濫用を正当化する事実と理由ではない。今日の企業社会における単身赴任の被害の深刻さ、社会的な問題性は、片岡意見書が詳細に指摘した通りであって、これらのことを避けようとした本件配転拒否が、秩序罰として最も過酷な解雇の対象となったことの正当性は原判決によってまだ理由づけられていないのであり、このことは、判断における理由の遺脱となる。よって破棄されるべきである。

二 本件配転濫用についての重要な判断の逸脱

本件配転は、上告人の意思を尊重をなされずになされたものであるが、原判決は、この点についての判断と理由を欠落させたものであり、理由不備のものである。

すなわち原判決は、「右配転にあたっては本人の個人的事情を十分に考慮するという意味であることは前記認定のとおりである」とした上で、原判決は、本件配転命令について同意が要らないとの誤ったものにせよ判断はしているが、本件労使関係において慣行として成立していた合理化配転に際しての労働者本人の意思を尊重する点について、会社が上告人近藤の意見を尊重したかどうかについての判断を全くしなかったのである。

原審において上告人は、本件配転がローテーション人事におけるものではなく、労働者に責任も利益もなく、むしろ会社の経営責任に問題がある合理化配転であること、この場合には本件労使関係において、労働者の意思を尊重する労使慣行のあることを強く主張し立証してきた。そして、このことは原審判決も認めてきたのである。

本件配転が上告人の意思を当初より全く無視してきたことは明らかであり、この点についての正しい判断がなされていたならば、判断の結果は充分に変っていたといいうるのであって、この点を欠落させた原判決は、理由不備のものとして破棄されるものである。

以上

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